下町魂
吉澤秀香
ねこ柳の芽が雪間から顔を出し、五月には菖蒲の花が咲き、たんぽぽを摘み取り、西濠の土手は四季折々の姿をみせてくれました。
紺屋町の交番所わきにかかる一本橋は、土手に行く為の小さな橋でしたが、満開の桜のトンネルや、弘前公園へ導く大切な橋でもありました。
本丸へ行く途中の急斜面をソリで滑り、長靴を縄でしばってのスキーも思い出深いものがあります。

私は七人兄弟の長女に生まれ「鍛冶屋のテッちゃん」と言われて育ちました。
代々津軽藩に仕えた刀鍛冶で、住込みの若者も沢山おり祖母や母は食事や洗濯に追いまわされていました。
祖父は幼稚園に弟と一緒に送ってくれたのが思い出されます。鷹匠町の現在のサムエル保育園です。
山鹿元次郎先生が行事あるごとにみえ、笑顔でお話してくださり、袴をはいた鹿内先生がオルガンを弾き、みんなで歌ったものです。
小学校のすぐそばの袋町には、石戸谷遊汀先生の習字会、梅香書院があり、学校へ入るとみんな習いに行ったものです。
私は近所の子供さん達と一緒に小学校入学前から始めました。 今思うと、これが私の書人生の第一歩で、考え深いものがあります。

「読み、書き、そろばん」は、当時は日本人の必須のものでした。今のように機械をたたくと字が出てくる時代とは大変な違いでした。
当時は戦前で学校名も国民学校でした。
城西国民学校の一年生の担任は、工藤 緑先生で戦死なさいました。その後、福士先生は色白のふっくりした優しい先生で、数少ない小学校時代の写真の一枚として大切にとってあります。
高学年は、土岐志郎先生が担任で何故か渾名が「モウジュウ」でした。音楽が好きで、合唱の練習を随分したものです。先生御自身もマンドリンを弾いていました。

当時は、朝礼も、遊びも外庭で、終わると足を洗場で洗い、玉石の上を渡って校舎に入ったものです。
校庭での遊びは、裸足でした。別に怪我をすることもなく丈夫で元気で楽しい毎日でした。
帰りは習字会で習字を書き、新聞紙に一生懸命練習し、丸をもらい満足で家へ帰ったものです。
当時恥ずかしいと思ったのは、父兄参観日に母は下の弟をおんぶし、両手には上の弟達の手を引いて来ていました。弟は机の間をチョコチョコと歩いて私の所に来て「テッコ、テッコ」と名前を呼びました。
顔を真っ赤にして、じっと下を見ていたものです。父兄会にはいくら多忙でも必ず来る母は、今で言う教育ママだったのかもわかりません。
その母も今は九十一才を迎えました。当時は今の中学校はなく、小学校六年生から女学校へ受験しなければなりませんでした。

目指すのは、県立弘前高等女学校です。戦時中でしたので「防空ずきん」を背負っての受験でした。
口頭試験での試験で今でもはっきりおぼえているのは、緊張して試験場に入ると、黒板の前の教壇に鍬が置いてありました。農耕作業に出かける時にその鍬をどうして持ちますかと問われました。
私は肩にかついで教室を一巡しました。次の問いは、その鍬の刃はなんで出来ていますかときかれました。
鍛冶屋育ちの私は、「はがね」で出来ていると、はっきり答えました。毎日鐵を鍛え、火花を見て育ったので簡単でした。しかし後になってそのように答えた人はなく、話題になったそうです。

待望の県立弘前高等女学校に母の手作りの制服を着ての入学は嬉しい思い出として今でも脳裏にやきついています。
入学はしたものの毎日毎日農耕作業でした。八月十五日、樹木の農家の庭先で終戦をしりました。女学校一年の時です。学年制度も変わり新制高校が出来、校名も変わりました。中央高校には、六年間入りました。
併設中学校三年、高校三年でした。書道部を作り、石倉守拙先生に来てもらい、活発な活動をしました。

高校卒業後、私は当時創立間もない東北女子短期大学の被服科に進みました。この短大での二年間は、社会人となった時に大いに役立ちました。
物資の乏しい時代、しかも兵舎の後ろでの授業でしたが、今村敏先生の授業と人格形成の為の細部にわたっての教えは、海よりも山よりも大きく、今でも柴田学園には感謝しています。
今村先生から教えを受けたことを誇りに思います。
そして、卒業と同時に中学校の家庭科の教員として三十年間勤務しました。一中、北辰中、三中とまわりました。
定年まであと十年残し、退職、自分の人生は自分で決める。私の持論です。五十才で書道大学へ入学。
上京して書論、書道史等の理論的なことを学び、古典を中心に書道界のトップの先生の講義を受けることが出来ました。
結婚。子育て。勤務。姑の世話から解放され、書一筋に向き合うことが出来た貴重な時間でした。二十四時間を三倍くらいに生かして使ったように思います。

数えきれない多くの困難がありましたが、一つのことを貫こうとすると、障害があるのは当然で、苦労は忍ぶという人生の大切な糧を養ってくれます。
苦労と努力と辛抱が、目に見えない大きな幸せを与えてくれると信じて生きてきました。
自分の足で本物にふれたい、そしてたしかめたい、そんな気持ちにかきたてられ昭和四十九年より休みを利用しての世界行脚が始まりました。
台北の故宮博物館をスタートにエジプト・ヨーロッパ横断、アジア、中国、アメリカ、ドイツと随分多くの国で絵画や彫刻、音楽等、肌にふれ学ぶことが出来ました。

一本の線の中にそれらの感動を凝縮して表現したいといつも思っています。現在は日本の文化の紹介で出かけることが多くなりました。
書は相手もいらず唯、一人妄想にふけり、真白い紙に黒い線で何かを表現する。上手下手は別として年令が加わるにつれ親しみを増し、書くほどに若々しいういういしい書がかけて味のある字が書けるようになり、毎日を楽しくします。
岩木山を眺め、四季折々の弘前公園の大自然の中で育ち、意志強固で反面人情溢れる下町に生を受けたことに誇りを持ち、下町魂を心の宝とし、これからも書の道一筋に精進したいと思っています。
(平成十四年 《したまち》 第九号より)